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帰国。 [仕事と私]

海外青年協力隊では、2年間の任期の間は
日本に帰ることは原則としてできないことになっている。
その代わり、1年目が終わると「研修旅行」と称して
2週間以内で近隣の6ヶ国以内の国への旅行が認められ
(メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスへ出掛けた)
任期終了後には3週間以内に帰国すればよいという条件付で
海外を転々と旅しながら帰国してよいことになっている。

2年の任期が終了して、セシリアさん家族や生徒に見送られながら
コスタリカの空港からチリの首都、サンチアゴへ。
何人かの生徒は涙を流していて、私も切ない気がしたのだけれども
機上の人になってしまうと、私の気持ちの中ではきちんと一区切り付いてよかった
という感じの方が強かった。きっと私は冷たい人間なのだ。

久々に大都市という印象のサンチアゴで一人の旅行モードに気持ちを切替え、
ブエノスアイレスへ移動して数日、毎晩濃厚なステーキや血のソーセージと赤ワイン。
どれも冗談のように安くて旨いのだ。
一度サンチアゴに戻ってから、転々と南北に長いチリを南下して
マゼラン海峡に面した町、プンタ・アレーナスへたどり着く。

静かな街だった。パタゴニアを目指すバックパッカー達や、南極ツアーに出掛ける観光客もいるが
街の印象はひどく穏やかだ。
ひたすら風が強く、蟹が旨い。だいたい何処でも茹でてほぐした蟹の身が刻んだレタスの山の上に載っていてマヨネーズをかけて出てくる。料理と言うほどのものではないけれども、素朴で旨いのだ。
この街で新年を迎えた。
街の広場に高い時計塔があり、南米最南端の大晦日は年越しの瞬間も空がぼんやりと
明るかった。新年になった瞬間、何処からともなく消防車が数台派手にサイレンを鳴らしながら
走ってきて、私のいる広場を一周して、その大音響を響かせながら走り去っていった。
ふとみると、ベンチの隣に小さな女の子がいて、すこしアルコールが回ってとろんとした私に向かって
例の中国人を侮蔑するポーズ(=指で目じりを外へ引っ張って、切れ長の目を真似る)をしている。
悪気は無かったのかもしれない。ただアジア人だ、と思っただけかもしれない。
でも、なんとなくその時に「そろそろ帰る潮時なんだな」と思ったのだ。2年間が終わったのだ。

帰国する飛行機の隣に座ったアメリカ人は、仕事で東京に住んでいると言う。
成田に向かって降下し始めた機内で、彼が私に話しかける。
「帰ってきたというより、また別の外国へ来てしまった気がするのではないですか?」

全くそのとおりで、2年ぶりの日本の風景はひどく違和感のあるものに思えた。
空港から、電車へ。この人の多さは何だろう!
ラッシュの山手線を見た瞬間に「この光景を中米の人が見たら火をつけられるんじゃないか」と。
何処を見てもアジア人大集合ではないか。訳も無くハラハラした。

日本政府が勝手に積立てておいてくれたお金のおかげで、しばらくは何もしなくてもよかった。
仕事をしよう、という意欲自体がなかなか湧いてこない。
私はまずイタリア製のスクーターを衝動買いし、放置しておいたアプリリアのオフロードバイクを復活させて、それに跨って合宿免許で向こうにいる間に興味を持った自動車の免許を取った。

初めて買った車は、ぼろぼろの1982型プジョー504ディーゼル。
いざ車を買おうと思い立つと、何処に行けばいいかもわからず
昔からよく読んでいた「NAVI」の編集部に電話をかけて自分の好みを話すと
編集者の人が親切に「おんぼろのプジョーが20万円で売ってましたよ」と教えてくれたのだ。
シトロエンなどマイナーな車が並ぶ町工場風の店の主人は、このまんまでいいなら15万でもいい
と気前がよかった。昔雑誌で「世界一の乗り心地」といわれてたのはこのことか、と感激したが
オイルダンパーが抜けきっていて、遊覧船のようだった。見た目はベージュの鉄くず。
出掛けて人と会う時には、ダンボールに「故障中-すぐ引き取りに来ます」という紙を常備して
ダッシュボードにそれを掲げて、お茶を飲んだり映画を見たりした。
天気がよければ何処かへ目的無く出掛けて、雨の日は本を読んで過ごした。

仕事をしなければ、という気持ちが湧いてきたのは、預金がこのままではなくなることに気がついたときだった。もう春になっていたけれども、不思議とあわてる感じはなかった。


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バーバラから電話。 [仕事と私]

煉瓦が船便で届く。今回のコンテナは新しくて気持ちがいい。
「これ、何処製かい?へえ、イギリスかい、ま、なんかちげーといえばちげーなあ」
地元の建設会社の人は、何でこんなものをわざわざという顔で荷降ろししてくれている。

昔ながらの煉瓦がめっきり少なくなった。
あっても高い!そんなもので大きな壁なんか作った日には、
というか作る前に予算が合わない。
かといって、手に入りやすい煉瓦では、思ったような庭には程遠いものになってしまう。

いろいろ探して、風合いがよく植物ともよく馴染んで、値段もそこそこという煉瓦になんとかたどり着く。
いくつかの庭で試して、しばらく様子を見て、今回の大きな庭園のデザインをして、会議をして、膨大な図面や書類を作って、また会議をして.....
そんなこんなで、やっと荷物が届くところまできたわけで。
でも、この先の道程を考えると、またくらくらする。

そんな最中に会社から電話。
「またバーバラから電話あったんですけど。どうします?」

通関業者を変えて、若い女性が担当者になった。
見慣れない名前の貨物が多くて、混乱しているらしい。
「あのー、このテラコッタ・ポタリーっていうのは...材質は何でしょうか」
「素焼き鉢、で通しちゃってください」
「あー、なるほど。えーと、あとこの『バーバラ』っていうのは....」

バーバラ? 寺岡さん?

「えーと、何行目ですか」
「ごめんなさい、文字がつぶれ気味で、えーと」
「あ、『パーゴラ』のことですか、5行目ですよね」
「ああ、パーゴラですね!ええとパーゴラ、パーゴラって、何でしたっけ」

それ以来、彼女はバーバラさん。
毎日のように質問の電話がかかってくるのだ。
今日も突飛な質問をして、すてきな刺激をくれる。
で、ふと思う。
こういうものを提案して、受け入れられて、納めて、
それが仕事として成り立っているのは幸せなことなんじゃないか、と。
あーめんどくさい!!って叫びたくなることも多々あるわけですが。

それにしても、疲れました。ふう。






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美術教師としての私。 [仕事と私]

コスタリカでの仕事は、国立大学の美術学科の工芸専攻の学生及び教授達に
美術・デザイン教育の基礎を教えること、となっていた。
でも、私は美術教師の経験は教育実習以外にはない。免許もない。

ま、何とかなるだろうと採用されたのだから、何とかしよう。
脳天気&楽天的なB型らしくいくのだ。

協力隊員の任期は、新規でない場合は先代隊員と少しでも重なる期間を設けて
その間に引継ぎをして「継続的な支援活動」を目指すことになっている。
やったこと、上手くいったこと&いかなかったこと、注意すべきこと、などなど
過去の上にやるべきことの方向性を考える。悪くない方法だと思う。

先代隊員は明るい女性で、工芸、特に陶芸の専門だった。
私の場合は、継続といっても違う内容の要請なのだ。

彼女は、この国は好きだけど、もうたくさん!と感じているようだった。
"美"というものの捕らえ方が表面的過ぎて、変えようがないと。

コスタリカには綺麗な女性が多い。すぐにでもモデルになれそうな女の子がそこら中にいる。
でも、小学校の学芸会みたいな「化繊100%・ピンクのドレス」なんてのを着てたりして。
最初のうちは、もったいない、などと思っていたのだけれども
だんだん、「綺麗」というものの感じ方が違うのだなあということがわかってきた。
色、形がほとんどの判断基準で、質感やバランスなどにはあまり興味がないらしい。

他の教授の授業を参観する。
生徒の作品の講評になると、ど派手な花を紙の真ん中に描いた絵なんかが一番人気だ。
先生も「まあ、綺麗に描けてるわ、他の人もよく見てね」などという具合。
大学、という感じではない。

学生は、1年生から卒業するまで、ひたすら作品を作り続けて
皆に綺麗と褒められた学生は生き生きと制作をして
そうでなかった人は脱落していく、そんな学科。

しばらく考えて、私は2年あるのだから時間がかかっても自分の納得がいくような方法で
授業の方法を提案してみよう、と考えることにした。
まずは、「なぜ?」といつも考えてもらうことからだ。
美しいと感じるのはなぜか?綺麗だと思うのはどうしてか?
そこにはどんな基準やものさしがあるのか。
平面構成から美術用語の基礎をある程度俯瞰できるようなテキストを作って
授業のスタイルも少しでも変化してくれたらいいなあ、と。

しかし、言葉が稚拙ということが予想以上にネックだった。
言いたいことの10分の一も言葉が思い浮かばない....
毎晩のように夢の中でも言葉に詰まる。
ぐったりして、たまの休みには知らない街を散歩した。

1年生のエヴェリンは何をやってもうまくできない、と泣きながら相談に来た。
「だれも私の作ったものなんか綺麗だとは思わないわ」
「最初はそうかもね。でも、君がいいなあと思う作品はあるでしょう」
「シンティアとか?でも全然違う。どうしたらいいかわからない」
「じゃ、良いと思った時に、何が良いと思ったのか、どこが好きなのか、考えてみたら」
エヴェリンは脱落せずに2年生になった。

シンティアはウィノナ・ライダーを思わせる綺麗な子だった。
無口で、いつも黙々と手の込んだジュエリーを作っていた。
自分で選んで留年して、授業以外の時間も作品を作っている。
1年目、私を見る彼女の視線は冷ややかだった。
「訳のわからないこと話してる暇があったら、立派な作品でも作ったら?」とでもいうように。

2年目になって、すべてが少しずつ変わってきた。
シンティアとエヴェリンが工芸室で一緒に作品を作っている姿をよく見かけた。
生徒達は私の冗談に笑ってくれて、授業に出掛けるのは楽しいことになっていた。

「1年目のharryは暗かったわよ」とシンティアが茶化すように笑っている。
「でも今年になって見違えたわね!こんなおかしな人だと思わなかったもの」
任期終了を告げたあと、生徒達に誘われて出掛けたピクニックで散々からかわれた。
カタカナで「キ○ガイ」と書かれた手紙をもらった。嬉しかったな。

自然が豊かで、人々はゆったりと暮らし、軍隊はなく、
ビールを頼むと自動的に旨いツマミが出てくる国。
ひたすら働いて、神経をすり減らすことの多い東洋の島国と比べて
いったいどちらが豊かなのか、全くわからなくなった。
活動報告書のまとめに、そんなことを書いた。

ま、思い返すとそんな感じの2年間だった。
そろそろ正気に返る時期、などとは思わなかったけれども
私の任期は予定通りに終わるのだ。
「ねえ、ほんとにハポンに帰っちゃうの?」
「ああ、帰るよ」
「ひどい。笑ってるなんて.....私達のこと、もう嫌?」
「そんなことないけど...帰ってやることもあるし」
「そうなんだ...」

半分は嘘で、やるべきことは何も思い浮かばなかった。
ただ、隊員になる時に決めていたこと
- 20代は思いついたらヤミクモに、30歳になったら全く違うことをする -
その区切りが数週間後にくることになっていただけなのだ。

なんとなくマゼラン海峡を見てみたくなって、チリ・アルゼンチン行きのチケットを買ったのだった。


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転職人生-コスタリカでの生活。 [仕事と私]

村上春樹の小説、"世界の終わりとハードボイルドワンダーランド"のような
アンティグアでの静かな生活が終わって、
我々はそれぞれの任国へ。
Costa Ricaだ。
パナマの北、南北アメリカ大陸のくびれた所にある。
国の中央を南北に山脈が流れていて、首都サンホセはその太平洋側の高地にある。
私の配属されたナシオナル大学は、そこからバスで30分ほどの町、エレディアにあった。
日差しは強く、その割りに気温はそれほど上がらず。年中、初夏のような気候なのだ。
年の半分は、雨季。
といってもずっと降っているわけではなくて、毎日午後にスコールがあって、朝晩は晴れている。

ステイ先は老夫婦の家で、街外れの隣町へ通じる細い道路沿いにあった。
道路から少し下がって平屋建ての小さな家があり、裏手に少し芝生が広がっていて
その奥に長男と次男がそれぞれ家を構えていた。

お爺さんは酪農を営んでいて、毎朝早くから出掛けて、夕方私が帰ってくるともう寝ている
ということが多かった。恰幅がよく明るいお婆さん、セシリアは、冗談が好きで
他人を家に住まわすことに慣れて余裕がある感じだった。私は恵まれていたと思う。
セシリアさんの家には毎日新鮮な牛乳と、自家製のチーズがあった。

着いてしばらくのことは、頭がいっぱいだったのか、あまり記憶が無い。
何ヶ月かすると、セシリアさんの家はすっかり居心地がよく
「我が家」と思えるように自然に馴染んでいった。
授業が無い日の午後には、家と道路の間のテラコッタの敷かれた場所の椅子にかけて
のんびり本を読んだり、手紙を書いたりして。そうすると、買い物から帰ったセシリアが
「ココアでも、飲む?」と声をかけ、カップを二つ持って現れて、
二人でぼそぼそと
「いい天気ねえ」
「そうですね」
「授業はないのね」
「ええ、で手紙を書いてたんです」
「ちょっとみせて.....なんなの、この蛇が絡まったみたいなものは。これ、皆読めるの?」
「ええ、まあ」
「だめ、だめ。私には出来ないわ、こんなもの覚えるなんて。お母さんに書かなきゃだめよ」
「ええ、母にも書きます」
「じゃ、邪魔しないわ。それにしてもいい天気ねえ」
などという会話をして、彼女はキッチンに戻っていく。
本当に天気がいい。私の顔や腕も随分浅黒くなってきた。

街を歩いていると、どこからともなく「チーノ!」と呼ばれることがある。
Chino=中国人、という意味だ。
コスタリカに限らず、ラテンアメリカの人の多くはあまりアジア人が好きではないみたいだ。

可愛らしい子供に「チーノ、コッチーノ!」と囃し立てられたこともある。コッチーノ、は"汚い"。
店で普通に買い物をして、「チニート(=小さいチーノ)、どこから来た?」
と真顔で聞かれて、「悪いけど中国人じゃない、日本人だ」
と答えると、少し顔色が変わって
「日本か!日本はすごいよなあ、おれもトヨタ乗ってるよ。でもどこにあるんだっけ?」
「.....中国の近くの島だよ」
「あ、そうだ、中国の首都だな」
「ちがう、ひとつの国なんだ」
「へえ。でも車は一番だな。皆で作ってんだろ」
「いや、別に国中で自動車作ってるわけじゃなくて、ソニーとか...」
「ノオノオ、ソニーはアメリカだよ」
「........」

とにかくjapon=ハポンは工業製品でしか知らない、どこにあるかもわからない謎の国
というのが一般的なイメージなのだった。
やれやれ。


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自分を知らされる適性検査。 [仕事と私]

自分がナニモノなのか、時々考える。
でも、自分のことを一番よく知っているのは他人です。
「ほんとうの私をわかってもらえない...」なんてセリフも時々聞きますが
本当の私、なんて、すべての周りの人の中にある私、そのものですね。
関係を含んでこそのワタクシ、ですから。

でも、たまには面と向かって「あなたは○○な人間だ」なんてことも聞いてみたい。
で、占ってみたり。なんてことはしないですけどね。めったに。

協力隊員になって、研修の最初に、それはやってくる。
運転適性検査」というものなのだが、質問たっぷり、作業もあって
何日かして結果説明がある。

本来、自動車の運転に向いているかどうか、注意すべき点はどこか
なんてことを調べるためのものらしいが、
その「客観性の高い診断結果」から、業務への適性を見るのにも使われるようになったという。
決められた図形を延々と描いたり、わけのわからない質問に答えさせられたり
何時間か消耗して、その結果。(以下、原文のまま)

 あなたの性格はいろいろな特徴をもっていて、ふつうの人に比べて少し複雑です。
 そのときどきによって、さまざまな面をみせるやや多面な性格です。
 しかしどちらかといえば、自信家です。実際にはよくできる人ですが、少し口の悪い方です。
 ふだん愛想のよいあなたの口から、人をハッとさせる言葉が出ることがあるようです。
 時々、自分の性格にいや気がさしてくることがあるのではないでしょうか。
 細かいところまで、よく気を配り注意深い人です。
 これからも心をひきしめて安全運転をしてください。
 とっさの場面にも、適切に判断し、スムーズに動作に移す能力がすぐれています。
 頭の回転の速い方です。ひとつのことにとらわれずに問題場面に即応できる素質をもっています。
 精神状態はきわめて健全で、心配はありません。
 判断力はおおむねすぐれていますが、ときどき慎重になりすぎて決断が遅れることがあるようです。
 ものごとをきちんとやることが好きな性格です。他人のだらしのないことが
 気になるかもしれません。冷静な気持ちで運転してください。
 精神状態について、とくに問題はありません。この点に関して運転上心配することはありません。
 どちらかといえば、仕事の速さが一定していて、危なげがありません。
 ノビノビとしていて、健康的な方です。
 性格について病的なところはありません。

やれやれ。
「時々、自分の性格にいや気がさしてくる」「ノビノビとした、健康的な方」ですか.....
当たっている、ような気が。ま、いっか。

「性格について、やや病的なところがあります」

なんて書いてあったら、立ち直れないものなあ。

その上で、性格パターン分析なんてものもある。
「アルファベット2文字の組み合わせが、評価シートに印字されています」
と、検査を実施した会社の人が説明する。
「例えば、○○とある方、この2文字は"粘着質"、■■とあれば"躁鬱質"という具合で
一種類の方と、二種類記載されている方がいます。二種類の記載の方は、それらが
混在する、やや複雑な性格ということになります」

えーと、あれ、三種類あるなあ。

「えー、今回は皆さん約150人の中でお2人と少ないですが、まれに三種類目の記号が
書かれている方がいます。これは複雑要素と申しまして、この記号の出る方は
『分類できない複雑な性格要素を持った方』か、『でたらめに質問に答えた方』なんです」

あらら。そんなこといわれても、わからんですよ。

検査説明が終わり、コスタリカへ行く我が部隊数人がなんとなく集まって見せ合いをする。
「お、やっぱり粘着質だ!」「他人の見て笑わないでっ」「社交的、ってうそうそ」
紅一点の手芸隊員が私のシートを奪って、大笑いした。
「なんでこのシトのだけ、こんな占いっぽいの!きゃーっ」

それ以降、私が発言するたびに
「ねえ、時々自分の性格にいや気がさしてくること、ない?」
というのが皆の切り返しのセリフとして定着したのは、言うまでも無い。
ぐっさり。


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転職人生-協力隊員に。 [仕事と私]

2ヵ月半の研修中には、語学だけでなく「国際協力の仕組と意義」についての講義や
体力測定や、毎朝のマラソン、オートバイ運転教習、鶏のさばき方、などという様々なことを学ぶ。
一番面白かったのは語学研修旅行かな。
長野の訓練所から観光地の高山へ、クラス数人&ペルー人の先生と出掛けるのだが
日本語は禁止。皆でスペイン語だけを使うのだ。
でも、どうみても日本人なわけで。お店のおばさんも不思議そうだ。

仕方がないので、妙な片言のニホンゴで
「エートオ、ワタシタチ、ペルーカラ、キマシタ。」
「あらあ、じゃ、ペルーの人?」
「2セイ?デス。」
「なんって?あーお父さんお母さんは日本人なのね」
「ソーデス」
で再びスペイン語で会話。"Ahora estoy buscando algo otro..","Bamonos ! ""Si, si"

「んでも、ほら、立派だわあ、ちゃあんとこうお母さんの国に帰ってきたんだものねえ..」
むむむ。騙してごめんなさい。

2ヵ月半の研修が終わり、出発の前に赤坂御所で皇太子と歓談の機会があった。
なかなか感じのよいホールのようなところへ皇太子が登場。
グラスワインや煙草!なんてものも用意してあって(菊の御紋つき)
「どうぞ、皇太子殿下にご質問などはありませんか」という声に
ほろ酔い気分の若い女性隊員がすかさず
「ご結婚のうわさがありますけど、どーなんでしょうか」
え、そんなこと聞くなよ(笑
でも当の殿下は
「まあ、そうですねえ、そういうことはご縁ですから。どうでしょうか。貴女はもうされましたか」
「え、私は.....まだです」
と、見事な切返しだった。出来る男なのかもしれない。

当たり前だけれども、2ヵ月半で言葉が流暢に話せるようになんてならない。
で、我々ラテンアメリカ組は大挙して今度はグアテマラに送られて、
さらに1ヵ月半、スペイン語の特訓を受けるのだ。

ホームステイで、少しずつ日本語から引き離されていく。
アンティグアの街は時間が止まったような美しさで、
スペイン語を学びにきた各国からの若者と出会う。
近くには原住民の血を引くインディヘナ(インディアンとは呼ばない)の住む山村があり、
都市部と交流のない彼らを知る人に紹介してもらってぼろぼろのバスを乗り継いで行き、
コカコーラを土産に、昔ながらの調理法で料理をご馳走になったりした。
「何で今日は奥さんいないの」
紹介者が尋ねると
「いや、この間浮気がばれて、畑の斜面から突き落とされたよ」
ハナ肇に瓜二つのインディヘナのお父さんが照れくさそうに笑う。

言葉が通じると言うことが、こんなに楽しいことだとは!


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転職人生-その2。 [仕事と私]

私はひどく生意気で、国産大手のコンピュータ会社の中にいながら
当時まだ珍しかったマックのセミナーに通ったり、
コマーシャル・フォトの世界の有名な写真家に仕事をお願いしたり
バイク通勤を認めてもらったり、と好き放題にしていた。
コンピュータ会社の中での3年間はあっという間で、
後半は本来の業務とは随分離れた企画の話が増えたりして
楽しかったけれども、同時に会社の枠組みが息苦しくなってきた。
数年後の自分が想像できるような気がして、そのとたんに空気を変えたくなった。

3年目で勝手に一区切り、と思って最初の転職。26歳だった。

某アルコール飲料メーカーと、自称世界最大の広告代理店が合弁してつくったデザイン会社へ。
規模はごく小さく、外国人デザイナーと組んでグラフィックデザインや空間デザインを
"プロデュース"と称して売り込むのだ。
一人に一台、MacⅡcxかSE30。
バイクで出掛けて、会社でスーツに変身。
カリフォルニア・キュイジーヌの店を作るから、と言ってサンフランシスコとハワイに試食に行く。
オーセンティックなバーの企画中は週に何回か会社の経費で各所の名物バーをはしご。
「話題の店」にするために、評判になったCMプランナーにインテリアのテーマを考えてもらう。
どんどんとエスカレートしていく。

でもなんか、おかしくないか。
プランニング料1,000万円って、そのお金はどこから出るんだろう。
悔しいけれども1年半で消耗してしまった。
私の思い描いていた「想像のつかない世界」はどこにあるんだろう。

ふとしたことで耳にした「青年海外協力隊」という仕事。
あまりにもかけ離れていて、ひどく違和感があった。
私はボランティアなどというものについて、考えてみたこともないじゃないか。

でも、不思議なもので、その違和感にひきつけられたのだ。
想像がつかない、そのものじゃないか。

試験を受け(大学受験を極端に簡単にしたようなもの)何とか合格して、面接になると教官が言う。
「あなたのようにまさに現役の方が応募してくれるのが一番いいんですけどねえ」
「といいますと」
「いえね、ここだけの話、国際協力の意義に共鳴して、なんていう方に限って
あんまり続かないんですよねえ」
「そういうものですか」
「まずは自分のため、勉強したい、変わった経験がしたい、で十分なんですよ」
ふうむ。

そして同期生として約150人ほどの20歳~39歳までの男女が
訓練と称して長野の山中に押し込められたのだ。
そこからあとは、すべてが想像外のできごとで。


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転職人生-その1。 [仕事と私]

「ずっと、こういう関係のお仕事なんですか」
「以前は何をされてたんですか」
仕事で知り合った人に、時々訊かれることがある。

転職を繰り返してきて、社会に出た頃には想像もしなかったような職種についている。
なんだろうね、これは。
でも、どの仕事も繋がっていると言えば繋がっていて、実に楽しかったのだ。

絵を描いたり、紙で工作、なんてことが好きだった。
大学受験のときになって、他に何もしたいことがないことに気がついて
でも予備校というものが心底嫌いで。
高校で美術の授業を選択してもいないのに、先生と仲良くなって鉛筆でデッサンを3回描いてみた。
のんびりした先生が「初めてには見えないわよ、いいんじゃない」と褒めてくれたのに気をよくして
教員養成大学の美術教育学科にすすんだのだ。
グラフィックデザイン研究室、というところに籍を置いたけれども、
まじめに作品を作った記憶がない。
唯一覚えているのは、鯛焼きを乾燥させて万力で軽く締め付けたオブジェ、
題して「挟まれたい」....

卒業する時に、ほぼ全員が自動的に教員免許を取得するわけだけれども、
紙切れ一枚に2,000円と聞いて、免許を申請しなかった。もったいない!と言われたなあ。
でも、使う気ないんだもの。いろいろな美術の体験がしたくて、教員養成学部を選んだだけだったのだ。

同学年や上級生たちの多くは、卒業したら教員になるものとごく自然に考えているようだった。
私と友人達は民間企業でデザインの分野で就職するのだといきまいて、
当たれるところは当たって、少し砕けたりもして、それぞれ就職した。
化粧品メーカー、電器業界、デザイン事務所、などなど。

私は某大手コンピュータメーカーでショールームをデザインする仕事に就いた。
新入社員は3ヶ月間で作品を製作して発表する、なんていう、余裕のある時代。
海外のショールームのデザインなどという仕事もあって
会社の規定をみると、TOEICテストで700点以上取れば単独渡航可、とある。
定時以降にグループ社員なども集めて様々な英語学習のクラスが設定されていて
月に何回か受講することを義務付けられていた。
で、入社後最初のテストでは400点台だったのを、がんばったら半年後くらいに
700点以上取れた。褒美は分厚い英和辞典だった。

で、海外業務希望の申告をして、入社二年目にシンガポール&マレーシアへ
一週間の仕事に出掛けた。初めての海外旅行だ。
空港を一歩出た瞬間の空気の匂い。異国の匂い。
現地駐在の年配社員と飲んで話しまくって。

帰りの飛行機でふと窓から雲海の夜明けが見えて、
その時から飛行機での旅行の魅力にとりつかれてしまったのだ。




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海外青年協力隊のこと。 [仕事と私]

28〜30歳直前まで、中米の大学で美術教師として働いてみた。
海外青年協力隊員として。

最近の応募状況はどうなんだろう。
名前は結構知られていても、実態はなんだかよくわからない
という感じじゃないのかな。

細かな仕組みや募集職種なんかは調べてもらうとわかりますが
実に様々な職種があります。赴任先の国も様々。
別に皆がアフリカで井戸掘っている、というわけではないのです。

まず依頼国と日本政府との取引があり、
その上で物資の融通やお金や技術の貸付&押し付けなどがあり、
その末端的に人の送り込みがある、という構造なんだろうけれども
行く人間にとってはそんな仕組みのことを忘れてしまうような
逃げ場所のない竜巻きのような2年間。でも、心の底から楽しんで帰ってきた。

なんて振り返ることができるのも、時間がたったからなんだろうけど。

自分が全くの無力だということを毎日思い知らされて
それでも仕事として強く何かを求められている実感があり
それに応えられずに愕然として。
しばらくして、日々新鮮な感慨や仄かな達成感が感じられるようになり
気恥ずかしいほどの信頼関係ができた、と思う頃に任期が終了してしまう。
貴重な体験だった。

援助、とか協力などという概念を捨てて(というのも矛盾ぽいんですが)
一つの仕事として捉えたときに、
一度体験しても損のないものだと思います。
騙された、と思って、ぜひ。


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